女優・渡辺美佐子が34年続けてきた原爆朗読の終わりと憲法について語る
渡辺美佐子ら女優たちによる「夏の会」が続けてきた原爆朗読劇。今月末には長崎にて開催の予定だ。
■34年続けてきた原爆朗読
渡辺が女優たちと34年間続けてきた「夏の会」の朗読劇が、2019年に一つの区切りとして終わった。そのことについても質問が飛んだ。
「朗読劇の稽古を取材していた井上監督に、『34年間続けてきたけど、みんな年には勝てないので今年で終わりなんです』という話をしたら、監督が『これは絶対撮らなければならない』といって次の日から稽古や公演にずっと付いてくださって、2ヶ月くらいの撮影期間でお撮りになった。
私は、『憲法くん』と監督が撮った原爆朗読劇のドキュメンタリーは全然別なものだと思っていました。『渡辺さん、できました。題名は「誰がために憲法はあるです」』とおっしゃったので、私は驚きました。
私も劇団の女優も言いたいことはたくさんあったけれど、考えてみたら、日本国憲法も朗読劇も両方とも『戦争はイヤだ。平和なのがいいんだ』という点では変わりがないし、ゴールは同じなので、『まあ、いいか』と納得しました」
■ひもじい中で腹にしみた米兵ビフテキ
渡辺は戦前、今も西麻布にある笄(こうがい)小学校に通っていたのだが、その時の思い出を次のように語った。
「私の自宅は今で言う麻布という山手でしたので、3月10日のたいへんな空襲には遭いませんでした。ただ、空が真っ赤に焼けていたのはよく覚えています。
でも、5月になってからは山手も爆撃されるようになり、私のウチを含めて7軒焼け残って、その周りは全部焼けました。私は母と姉と疎開をして、父が一人、東京に残って家を守った」
そして、戦後やっと家に帰ったが、その頃は東京で焼け残った家はほとんどなく、めぼしい家は米軍に目をつけられたという。
「私の家は一間だけ洋間だった。そして、米軍に洋間を接収されて、アメリカ軍の将校が日本の女性を連れて、住み込んできました。台所もトイレも一緒です。その頃の東京は本当に食べるものがなくて、戦争が終わっても畑や田んぼがあるわけでもない。
母が朝、大豆を煎って、煎った大豆の一握りが毎日の食事でした。しかし、同じ台所でジャーッとすごい音が聞こえ、すごい匂いも漂ってくる。米兵が焼くビフテキだったんです。
私たちにとって、お肉といえばせいぜい肉じゃがとか、お客さんが来てすき焼きとか。そういう風にしかお肉にはお目にかからなかった。知らなかったものですから、巨大なビフテキを焼いた音と匂いがお腹にしみました」
■原爆朗読劇の特別公演を長崎で
渡辺は最後に、30日に長崎で行われる原爆朗読劇の特別公演について話した。
「朗読を女優たちとコツコツ日本中でしてまいりましたけど、その時のお金が少し貯まり、終わるのを記念してそれを広島と長崎の原爆資料館に半分ずつ寄付いたしました。
そうしたら長崎の市長さんがすごく喜んでくださって、『昨年お呼びすることができなかったので、今年こそ長崎で』とおっしゃるので、急遽、台本も縮め、女優の数も少なくして小編成にして長崎公演をやることになりました。それが本当の最後になると思います」
戦争を知る世代の平和の語り手は、一人また一人と、減ってきている。
「夏の会」の原爆朗読劇は傾聴に値する重要なものである。それが最後となることに寂寞の感を持たざるを得ないが、映画『誰がために憲法はある』で記録されたことにより、映画とともに原爆朗読劇は今後も未来において語り継がれていくことだろう。
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(取材・文/France10・及川健二)