新潟の厳冬を生き抜く知恵を酒づくりに 豪雪地帯・小千谷『高の井酒造』のアイデア

自然の力を活かした「雪室貯蔵」で、さらなる美味しさを追求。

高の井

「五辺の大火で蔵も資料も全て灰になってしまいました」と語るのは4代目蔵元の山﨑亮太郎さん。当時、蔵にあった1,300石は大火事によって消えてしまったのである。


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■大火や戦争をくぐり抜けて

高の井

高の井酒造の前身は「山﨑酒造場」。現在の小千谷市高梨町五辺にて、江戸時代後期より酒造りをしてきた。蔵は本来なら、この先祖代々の土地にあったはずだが、1937年、「五辺の大火」に巻き込まれた。

「曾祖父が命からがら持ち出せたのは、金庫と恵比寿さまの木像だけ。しかし負けん気が強かった。半年後、今の土地に目をつけ、酒蔵を再建。3年後には隣に醤油、味噌工場も造りました」


信濃川が流れる小千谷では川を水路に物流が盛んに行われていた。しかし先々々代は当時、まだ珍しかった鉄道に注目。蔵の近くにある小千谷駅を蔵の前まで引っ張ってこようとしたそうだ。

「蔵で酒を詰めたらそのまま列車に乗せ出荷するという思惑もあったようです」と語るが、戦時下に突入し、統制という形で米も自由に扱えなくなる。酒造りも難しくなり、閉蔵に。

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■戦後、ふたたび酒造りをスタート

「ならばと、隣の工場で味噌、醤油を造りました。戦時中は兵隊さん用の粉末味噌を造り、軍に味噌と醤油を納めていた。15年酒造りを休眠し、1950年、先々代が社長の時に再度酒免許を発行してもらったのです」


そして社名を一新。前の蔵があった高梨町の「高」と、酒造りの命脈をなす井戸の「井」をとって「高の井酒造」と名付けた。

「酒造りが再開できる……その時の祖父の気持ちを考えると、涙が浮かびます。移転したとはいえ、昔なじみさんからも早く復活をという声を頂いたと聞きます。皆さんに待ち侘びてもらえる酒だったのですね」

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■風習から生まれた雪国ならではの日本酒